「フェティシズムとは先天的なものなのか、それとも後天的なものか?」
僕の中にはこんな疑問が10代のころからずっと存在していました。フェティシストの人間とは生まれながらにして、物心つかぬ時にも既に対象への異常な執着を持ち合わせているのか?それとも、体験や経験を経て後発的にそれが目覚めてゆくのか。
ついこないだTwitterでお話をさせて頂いているフェチ仲間の方が「幼稚園の頃から女性の猿轡姿に興奮を覚えていた」とのお話をしてくださいました。やはりそうなのかと感慨深い気持ちになりました。実は僕自身も幼稚園、いやその先に記憶を辿ってゆくと2歳から3歳の頃の記憶へ行き着きます。
当時テレビから流れていたアニメの西部劇のようなシーンで、金髪の女性が木製の絞首台のような上から吊るされ、鼻の上まで覆い被す布の猿轡をされていたシーン。それを、食い入るように見つめていた幼少期の自分を鮮明に記憶しています。
これが僕の初めてのフェティシズムの自覚であり、また記憶としても最も古い自己認識です。つまり、フェティシズムは僕が生まれた時、既に僕の中に一緒に存在していたのではないかと考えています。
ですので先の疑問に対して
「フェティシズムとは先天的に備わっているものである」
というのが自分の出した答えでした。しかし、さほどこの解答に自信は持てず知り合った同じ嗜好を持つ方にときおり尋ねてみたりします。
興味深かったのは、随分と昔になりますがTwitterをしていた同じ嗜好を持つすごく可愛らしい女性の方で、幼少期に友達と遊んだ『誘拐ごっこ』で縄跳びを使い男の子に縛られた際にとても興奮をした。そんな趣旨のツイートを発信しているのを見てお話をさせて頂いた事があります。
縄跳びというのがまたかわいくて、まるでDIDのおままごとみたいだなと思わずニヤリとしてしまったのを覚えています。
その男の子との関係性はなんだったのだろうか。泥棒と囚われた女の子だったのか、それとも盗賊と拐われたお姫様だったのか?それは聞きそびれてしまいましたが、きっとシンプルな関係性だったのではと推測します。
その女性の今は、きっと素敵なパートナーと出会い互いを受け入れ合える関係性を結べているのであろうと願っております。そして、そのパートナとは子供のころの『誘拐ごっこ』のようなシンプルな関係性ではなく複雑な大人の関係性で結ばれているのではないでしょうか。SとかMだとかであったり、もしくは互いが思い描いていた理想の形を打ち明けあって受け入れ、夫と妻という関係になっているのかもしれません。勝手な妄想でしかありませんが。
人間は成長してゆく過程で様々な体験をし、美術・芸術など目で見たもの触れたものに感化され、また他人から発っせられた言葉などに多くの影響を受けます。そして、その学んだ事を自分の核となる物に結合させ、新しい自分独自の価値観・思考を形成してゆくものだと思っています。
「思考」と「嗜好」、この両者は自分とともに成長と変化を続けてきました。なぜならそれは、この世に生を受けた時点で自分の中に潜在的に存在していたものなのだから。これらも自分の「心」の一部なのだと思えます。
現在のインターネットによる情報過多な社会で、目に飛び込んでくる様々な刺激的な画像や映像、そして言葉によって結合と変化を続けてゆく嗜好性。しかし、時には分解をし自分の嗜好の根源を辿ってみるのもいいのではないでしょうか?
あなたは「フェティシズムとは先天的なものなのか、それとも後天的なものか?」どちらだと思いますか?

ボンデージ・BDSM・Damsel in distress(略称DID)で女性が縛られ、猿轡やマスクで口を塞がれ拘束されている姿が3度の飯より好き!エロではなく変態・マニアな人間でしか気づけないフェティッシュな部分に執着したAVレビュー、他者のフェチは絶対否定しないをモットーにブログを書いています。色々なフェチの方々と情報・意見の交換が出来たら幸いです。
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